おこしの歴史
おこしはおこし米ともいい、
米や粟などを熱して干した後、
熱した砂糖や水飴に混ぜ、型に入れ乾燥させた干菓子のことをいいます。
上古時代 (紀元前5世紀〜794年頃)
「おこし」は 日本で最も古い歴史を持つお菓子といわれています。
弥生時代の出土品には<糒=ほしいい=米を蒸して乾燥したもの>に似た穀物の加工品が出てきます。
奈良時代には『日本書紀』の神武天皇の祝詞(のりと)に、『糒』を蜜で固めたものが記されていることから、豊作祈願として神に捧げられていたことがわかります。
平安時代〜江戸時代(794年〜1860年)
平安時代の文学にも米の加工した菓子が登場しており、当時は貴族に愛好され珍重されていました。
江戸時代初期の料理書『料理物語』や、同じく江戸期に編集された百科事典『和漢三才図会』には糒・おこしの製法が記されています。
江戸時代の大坂は、河川の改修や堀の開削を行い、千石船によって各地の藩の蔵屋敷へ年貢米が運ばれるなど『水の都』として繁栄を極めます。堂島の米市場では世界最初の先物取引が行われるほど 経済の発展を見せ、同時に元禄文化が花開きました。全国物産の集散地となった大坂は「天下の台所」と呼ばれ「おこし」の原料である良質の米・飴などが入手しやすい環境にありました。初代はこれに着目し長堀川の河畔、あみだ池に店舗工場を建て、美味い「お米のおこし」を作り始めるようになりました。
こうして大坂が栄えると共に”おこし”は<身を起こし 家を起こし国を起こす>縁起の良いお菓子として大阪名物になり、広く人々に親しまれるようになりました。
明治時代(1860年〜)
明治37年、日露戦争の時に明治天皇より戦地の兵隊さんに配られる菊の御紋章入り「恩賜のおこし」35万函の大量注文をあみだ池大黒が受けました。
このおこしが兵隊さん達に非常に好評で、帰国の後に「おこし」を大阪で求める風潮が高まり「おこし」が大阪名物として、さらに全国に認知されることとなりました。